徳川一族の話題を中心に江戸時代のおもしろ出来事などを 紹介していきます。
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保科正之が女性を信用しないわけ

前回の続きです

この理由はある出来事から、始まったとされてます。

2番目の妻 お万。

彼女は9人を生んだが、そのうち成人したのは4人だけ。

その中の3人は男だったが、いずれも若くして死亡。

2代藩主を継いだ、次男は36歳で死亡。

3代目は側室の産んだ子が継いだ

これでは、彼女の立場がない。

正室か側室か。

いつかの大奥みたいです。

そんな、彼女の救いは上杉家に嫁いだ娘だけ。

上杉家はもちろん、直江兼続のいたあの上杉である。

ただ、このあと別の問題が。

別の側室の産んだ娘が加賀の前田家へ嫁いだ。

そう、あの前田利家の前田家である。

家禄は?

前田家は100万石。

上杉家は・・・・

比べるまでもない。

上杉に謙信時代の勢いや力はもうない。

そこで、正妻のプライドがゆるさないため、ある行動に出た。

その側室の産んだ娘を毒殺しようという。

ところが、手違いで毒の入った料理は自分の娘のほうに。

そんなわけで、実の娘を自ら殺してしまった。

これを、きっかけに保科正之は女性不信になったといわれる。

名君といわれる彼には、こんなことがあった。

なので、名君なのに女性が信じられない。

女性からすれば、名君ではなかったということ。

とくに、会津の女性はたくましいほど立派だといわれるだけに、どうなんだろうと

考えてみたりもする。

さて、次回は会津が幕末に受けた悲劇と保科正之との関係を語ってみようか。


 
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今回は、保科正之の真相に迫っていきます。

幕末の会津藩の悲劇は、松平容保が京都守護職を引き受けたところから

始まった。

当時、この役目を受けるのは家臣は反対した。

当然だ。

当時の京都はかなり危険。

長州や脱藩したサムライなどが、うごめいていた。

それを、取り締まるために京都守護職を必要とした。

しかし、そんな役目は誰もやりたがらない。

家臣が反対するのも納得だ、

では、松平容保はなぜ引き受けたのか?

ここで、藩祖保科正之の家訓が出てくる。

家訓には15カ条ある

第1に藩主は徳川家に忠誠を誓うべし、万が一これにそむくことあるならば

わが子孫ではない。そのような主君にしたがってはいけない。

それ以外に、兄を敬い、弟を愛せよ。

婦人の言うことは一切聞いてはならない。

なんてこともある。

ここで、注目

婦人の言うことは一切聞いてはならぬ。

つまり、女の言うことは聞くなということ。

という割には、約5人の女性と婚姻関係を持っている。

なので、下半身は別物?

というわけだろうか。

これでは、名君と言えないのでは。

なぜ、こんなことを言い出したのか?

最初の将軍に忠誠を誓うというのはわかるけど。

実はある出来事がきっかけだった。

それは、また次回。

保科正之が聖人君主ではないわけ

 

どういう意味か。

 

保科正之は2代将軍、秀忠の子供。

初代の会津藩主であり、3代家光。4代家綱を支えた名君といわれている。

 

だが、真相は違うという話もある。

さらに、会津といえば幕末の悲惨な時期。

会津藩は朝敵の代表格として、新政府軍に徹底的にやられた。

会津の町も、武士に限らず新政府軍の兵士にやられたい放題。

あげく、会津藩士の多くは青森の斗南藩に追いやられ、飢えと寒さで苦しんだ。

 

この原因も、保科正之が影響している。

 

さて、その原因とは。

そして、保科正之が名君ではないわけ。

 

そんなことを書いていこうかと思います。

 

詳しくは次回から。

 

 

 

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