徳川一族の話題を中心に江戸時代のおもしろ出来事などを 紹介していきます。
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前回の続き。

徳川秀忠が将軍になれた理由です。

兄の秀康は、武将としても人格的にも上である。

秀忠は、おとなしい性格。

武将向きではない。

さらに、母親の違い。

秀康の母親は、家康の奥女中を務めた人。

秀忠と4男忠吉の母親は、中級武士の娘。

たいして、違いはない。

では、なぜ?


それは、その豪快な性格ゆえ。

戦国の世がつづけば、彼にも部があったであろう。

しかし、これから太平な世が続くなら
おとなしい性格の秀忠が将軍にしたほうがいいだろうと
家康の判断であろう。



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徳川秀忠。

2代将軍であるが、初代が家康。

息子の3代家光。


この二人に囲まれ、あまり歴史上の話題に上がらない・

彼はどんな人物だったか?

性格的には、律儀な性格だったそうで。

三男であり、当時からすると家督を継げる身分ではなかった。

とは、いえ長男の信康はすでにこの世にいない。

そうなると、ライバルは二男の秀康。

彼は、いわゆる熱血漢で勇敢な武将でもあったといわれる。

関ヶ原の前の、会津上杉ぜめ。

ここで、家康が会津を攻め続ければ、後の石田三成と
挟み撃ちになる。

なので、その情報をキャッチした家康は、上杉攻めをやめ
石田三成との決戦に臨んだ。

ここで、大事なのが退却時のしんがり。

ここで、食い止めておかないと本隊に影響が出る。

そこで、任されたのが二男秀康。

彼は期待以上の働きをして、家康を満足させたという。

では、なぜ彼は将軍になれなかったのか?

それは、また次回。



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090618-00000047-sanspo-ent


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再来年のNHK大河は「江」

だれだか、わかりますか?

徳川と関係の深い人物。

2代将軍、秀忠の正室。

お江与の方といったほうが、わかりやすいでしょう。

再来年は、この人が主役。

脚本は、篤姫を書いた人だというから
期待。

では、ふるさとはどこになるでしょう。

篤姫の場合は、鹿児島。

今の直江兼続の場合だと、新潟。

たぶん、生まれたのが福井だから福井ということになるでしょう。

信長の姪だから、名古屋も関係あるかな。

乗り遅れないうちに、江について調べておきますか?

徳川将軍家墓碑総覧

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090619-00000208-mailo-l25



では、ふるさと福井の宿を探してみますか?
今週の天地人に、徳川家康の登場でした。

秀吉に対して、臣下の礼をしたところでした。

舞台となった、大阪城。

実は、徳川とも微妙に関係があります。

それは、14代将軍、徳川家茂が死亡したところでもあります。

まさか、数百年後に子孫がここで死ぬとは思わなかったでしょう。


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大阪城付近の宿を探してみます
江戸城大手門


これが、江戸城大手門。

各大名などが、この門をくぐったのでしょう。




http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090617-00000591-san-ent

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大手門

江戸城の大手門渡櫓を撮ってみました。

ここを渡ったところに、大手門があります。



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再来年のNHK大河は「江」

これは、江戸という意味ではなく、江だそうです。

秀忠の正室、江のことです。


姉に淀君をもち、母にお市の方、叔父に織田信長、父に浅井長政をもつ
お江与の方といったほうがわかりやすいかも。

秀忠は3番目の夫という、数奇な運命を持ちながら
取り上げられることが、少なかった彼女が大河に初登場。

篤姫と似たような感じでしょうか。

脚本は篤姫と同じ方ですから。

詳しくはこちら

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090617-00000591-san-ent





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篤姫をご覧になった方は、将軍の後継ぎに
大奥の影響力が大きいと感じた方もいるでしょう。

実際、この話は7代将軍の時から始まっている。

有名な、絵島事件の時です。


月光院と蓮浄院の争い。

そして、次は8代目を決めるとき。

このときは、6代目正室の天英院と7代目生母の月光院の争い。

このときは、紀伊の吉宗が8代目になったが
大奥には、尾張を回避しようとする慣習もあった。

このことから、将軍争いに大奥の影響があったといえる。


まあ、8代目の時は別の理由もあるといわれているが。

そして、この後も実はあった。

それは、また次回。

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さて、今回は徳川から少し離れて直江兼続の話。

関ヶ原の戦いは、本来勝てたかもしれない石田三成。

しかし、自分以外の多くの西軍の大名は、豊臣への義ではなく
自分の利のために、家康の誘いに傾きかけていた状態だった。


そのころ、直江兼続は東北で伊達正宗や最上義明と闘っていた。

この二人は、家康の命令で隣国の上杉を足留め。

もしくは、叩き潰せと指令を受けていた。

ただ、この二人も完全に家康に従っていたわけではない。

なので、関が原の結果を見ながら、本気で上杉を攻めてはいなかった
という話。


結果、この二人が自分たちの利のために動いてくれたから
上杉は助かったともいえる


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徳川家康が関ヶ原で勝利した理由。

関ヶ原の西軍の布陣を見た方は、西軍の勝利を確信しただろう。

実際、明治になって外国から招いた軍事関係者は
この布陣を見て、西軍の勝ちを断言したともいう。

でも、実際に勝ったのは東軍である。

なぜか?

ここに、戦略家である三成も見抜けなかった、家康の策略があった。


それは、西軍のすべての大名が三成と考えが違っていたこと。

大多数の大名が家康とつながっていて、状況を見ながら戦っていたともいう。

つまり、勝つほうにつこうと。

三成は、豊臣のため。

つまり、豊臣に対する義のために闘っていた。

しかし、西軍の多くは義ではなく利のために闘っていた。

このあたりが、三成の誤算であり、その性格ゆえ
本来は西軍につくはずの大名も東軍として参加していたという
事態も招いてしまった。


そこを、うまくついたのが家康のずる賢さなのかもしれない。

関ヶ原の宿を探してみる
大河ドラマでは、直江兼続と石田三成の友情が芽生えたところです。

この友情が、後に家康にとって障害になってきます。

それが、関が原の戦い。

石田三成と共謀して、直江兼続が家康を倒そうとした。

だが、結果的には家康の勝利。

一見賭けのような関ケ原だが、実は家康の巧妙な仕掛けがあった。

それは。。。


また、次回。

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赤穂浪士の忠臣蔵。

実は、尾張藩にも関係があったらしい。

もちろん、直接的な関係はないが、間接的に関係があるらしい。

というのも、赤穂の浅野家。

ここの本家が広島にあるらしい。

ここの姫が、初代尾張藩主のところへ嫁にきた。


そこで、一緒についてきた侍が、そのまま尾張藩士になった。

ここの子孫が、実は赤穂浪士と関係があった。

討ち入りの浪士の中に、ここの子孫がいたらしい。

といっても、このときは他家へ養子に出されていたが、
関係がないとはいえないということで、この浪士の親が謹慎処分となった。

その後、浪士に切腹を申しつけられたあと、謹慎は解けた。

このように、微妙ながら忠臣蔵と尾張藩の関係があった。
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