徳川一族の話題を中心に江戸時代のおもしろ出来事などを 紹介していきます。
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大河ドラマ篤姫での家定は、せんべいのようなものを焼いていたのを思い出した。

実際の家定も、お菓子を作るのが好きだったようだ。

サツマイモ、カボチャなどを煮て、家臣に食べさせていたとか。

その他にも、饅頭なども作ったらしいが、味はまずかったようだ。


でも、将軍の作ったものだから、いらないとも言えず・・・・


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徳川家で最初にたばこを吸ったのは家重らしい。

これは、徳川実記に書かれていたことだが、実際には裏があった。

実はもっと前に家康が吸っていたという。

とはいえ、1度吸っただけで愛用まではいかなかった。

さらには、火事の原因になるとして禁止したほどであった。

なので、徳川家でたばこを吸ったのは家康が最初ということになる。

天璋院と徳川将軍家101の謎

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蛤御門

京都御所へ行ったときに撮りました。

長州との戦いのときに、ここが激戦区だったようです。

そのときに、総督として指揮を執っていた慶喜。

見事な馬さばきで周囲を感心させたそうで。

子供の頃の練習が実を結んだのでしょう。

当時は武士といっても、まともに馬を乗れない人もいたとか。


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本日は、テレビ東京で吉宗。

NHKでは篤姫。

と、徳川の人間が主役のドラマがやってましたね。

吉宗のほうは、天一を取り上げた珍しいドラマでしたね。

ところで、その吉宗。

実はイノシシを殴り倒したという話。

これは、狩りに出かけたとき大イノシシが吉宗に向かってきた。


そのとき、普通なら鉄砲で撃つところ。


しかし、このとき吉宗は銃口のほうをもって、イノシシを鉄砲で殴り殺してしまった。

さすがは、暴れん坊将軍。

おそらく、徳川将軍最強の男だったのでは。


身長も180センチを超えていたそうで。


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家康の再来といわれた慶喜。

有能なところ以外で、共通点があった。

健康に気を使ったところ。

こんなところも、家康と似ているのかも。

だが、最後にはしゃぎすぎて風邪をひどくしてしまった。

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慶喜が大正時代まで生きたことはよく知られている。

7番目の男だったが、22人いた男の兄弟の中で大正まで生きた人はいない。

このあたりも、晩年になって酒を控えるなど健康に気を使った証拠だろう。

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13代将軍は、12代の家慶の子。

篤姫でもおなじみの家定が継いだ。

だが家定は問題があり、家慶も13代は慶喜にしようと考えたらしい。

しかし、老中の反対にあって家定に決まった。

もし、このとき慶喜が将軍になっていたら・・・・

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水戸斉昭が、慶喜を将軍にするために行った政治的な出来事とは。

斉昭の兄の未亡人は家慶の妹。

斉昭の正室は家慶の正室と姉妹。

このつながりを利用したとも言われる。


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徳川慶喜が一橋家に養子に入ったのは、水戸斉昭の作戦だったとも言われる。


当時の12代将軍の家慶は、一橋の系列。

水戸家からは将軍になったものはいない。

水戸家にいる限り将軍への道はない。

そう考えた斉昭は慶喜の一橋入りを考えて、政治的な動きをしたとも言われる。


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徳川慶喜。


子供のころから、有能だったといわれているが意外な1面も。

そんな、慶喜の子供のころは兄弟でいくさごっこをしては、いたずらをしたという。

そんなことを祖母にしかられると、仕返しに頭をたたいたという。

それを考えるのは、慶喜。

それを見た、斉昭はうまく育てれば名君になれると言ったそうだ。

結果的にはうまく育ったということになるのか。


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いま、ネットで家系図を作る人が増えているとのこと。

なんの影響なのか?

篤姫の影響をうけて、先祖というものを認識したのか?

誰も書かなかった徳川家の謎

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徳川一族の中で長生きをした人は誰でしょう?

まあ、300年の歴史ですから、誰とは簡単には出ないでしょう。

有名どころでいえば、家康とか慶喜とか思い浮かぶでしょう。

実は92歳まで生きた人がいる。

その名は松平忠輝。

家康の6男。

他の子供と違って、表舞台には出てこない。

それもそのはず、家康に嫌われていたからという話もある。

捨て童子・松平忠輝(上)

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大正時代。

徳川一族のなかに総理大臣になるかもしれないという話が出た。

その人は、徳川家当主、徳川家達。

慶喜のあとに徳川宗家を継いだ人です。

この家達が総理大臣になったら、再び徳川家が天下を握ることになった。

だが、家達は親戚会議を開いて相談。

結局は断ってしまった。

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徳川慶喜の10男 精は勝海舟の養子になった。

明治25年の話。

このころ勝には子供がいなかったために、慶喜から1人もらった格好になった。
明治になってからの慶喜は暇であった。

なので、写真や狩猟などをして楽しんだという。

今回は狩猟について面白い話を仕入れた。

慶喜と仲が良かった、弟の昭武。

最後の水戸藩主としても知られている。

そんな、昭武が明治14年にアメリカから帰国し、静岡の慶喜を訪ねて行ったといわれる。

だが、その翌日から二人は猟に出かけたという。

お互い趣味があったらしい。

この二人の猟は、慶喜が東京に戻ってからも続き、
明治35年くらいまで記録が残っているという。

このとき、慶喜66歳。

あらためて、慶喜のゲンキさには頭が下がる。


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吉宗があきらめた恋?

将軍があきらめなければならない恋があるのか?

実はあったのだ。

それは、竹姫という綱吉の養女。

その竹姫に恋をした吉宗。

しかし、これはかなわぬ恋。

竹姫が10代後半になったころ。

その美貌に吉宗は惚れた。

ついに結婚したいと決意した吉宗は、6代家宣の正室、天英院に相談。

だが、天英院は怒った。

それは、血縁関係がなくとも大叔母にあたることから
認められない。

とのこと。

結局、このかなわぬ恋は終わった。

徳川吉宗・国家再建に挑んだ将軍



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徳川慶喜。

慶喜。

ヨシノブという風に読めました。

実際、江戸時代の人も正しく読める人は少なかったようです。

ただ、ヨシノブではなくヨシヒサであるという話もある。

これは、慶喜が将軍になってからの話。

だが、幼名から改名した時はヨシノブと呼んでいたのは事実。

では、なぜ?

真相は不明。

徳川慶喜維新への挑戦




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近衛邸


近衛邸あとの説明文
徳川慶喜と有栖川宮家。

どうう関係なのか?

有栖川宮といえば、和宮の婚約者。

というイメージがある。

それ以外には、幕府討伐の総大将も有栖川宮である。

それ以外に、慶喜とも関係がある。

慶喜の母親は有栖川宮家出身。

そして、慶喜の後継者の慶久が有栖川宮家から嫁を貰っている。

そして、慶喜の孫である高松宮喜久子妃殿下は、有栖川宮の前身
高松宮に嫁いだことで、慶喜と有栖川宮家は深い関係にあったといえるのでは。


徳川慶喜維新への挑戦

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田安徳川家。

徳川御三卿の1つ。

江戸城の中の田安門の中に屋敷があったから、田安家と呼ばれた。

初代は、徳川宗武。


8代将軍吉宗の二男である。

長男の9代将軍家重と違い、有能な人物だったといわれる。

実際、吉宗も9代目を宗武にと考えたこともあった。

老中などの反対もあって、実現はしなかった。


その田安家も現代の当主は一橋家の血筋なのだ。


2代目までは宗武の血筋だったが、途絶えたため一橋家から養子をもらって
家をつないだ。

なので、現在は一橋家の血筋が田安家を続かせているということになる。

ちなみに、松平定信は吉宗の孫。

宗武の二男である。

現在の宗武の血筋が定信によってつながっている。


松平容保



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篤姫に登場する小松帯刀。

彼がいなかったら、明治維新も成功しなかっただろうといわれています。

慶喜と仲がよかったという話。

実際、大政奉還を進めたのは彼だったという話もある。

禁門の変のときでは、慶喜から牛肉の催促があったとも。

徳川慶喜が兄弟のなかでも、1番仲が良かったといわれる昭武。

徳川斉昭18男として誕生

14歳の時パリ万博にもいき、最後の水戸藩主にもなった。

彼も慶喜同様、写真撮影に凝っていたようだ。

明治になり、水戸家の家督を譲ってから千葉の松戸にすみ、
慶喜ともよく遊んだらしい。





徳川吉宗。

8代将軍である。

ドラマの暴れん坊将軍のイメージがあるが、
実際には2メートル近くもある大きい人だったとか。


ドラマと違うのは、女好きだということ。


では、大奥の女性をリストラしたのと話が合わない。

というのも、吉宗は顔にこだわりがなかったという。

なので、大奥の美女だけをリストラしても惜しくはなかったのである。

吉宗が紀州時代には、かなり遊んだらしい。

気に入った人がいれば手を出し、子供を作ってしまった。

公にはできない子どもは、家臣に押しつけたという話も。

そのなかに、あの田沼意次がいたとか。

事実なら、吉宗の子供の田沼意次と吉宗の孫の一橋治斉が手を組んで
吉宗の孫の10代将軍家治を毒殺したかもしれないという話もある。

徳川吉宗・国家再建に挑んだ将軍


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オットセイ将軍と呼ばれた11代家斉。

55人も子供を作ったんだからしょうがないかも。

家斉の子供の55人のうち、尾張家には男女4人を送り込んだ。


この時代の尾張家は、家斉の血筋が占めていたことになる。


徳川家に伝わる徳川四百年の内緒話


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近衛邸あと

京都御所の近くにあった、近衛邸跡地。

ここで、篤姫は暮らしていた。

ちょうど近くに和宮の母親の実家、橋本家もあったという。

もしかしたら、このとき篤姫と和宮はあっていたかも


篤姫(完結編)

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5代将軍、徳川綱吉。

彼には子供が成長しなかったため、6代目は兄の子家宣に譲ることになった。

しかし、乗り気ではなかった。

なぜなら、自分と同じ境遇だったから。


どういうことかといえば、


母親にある。


家宣の母親は、身分の低い出身。

綱吉の母も、八百屋の娘とも畳屋の娘とも言われている。


母親は好きだが、身分の低い母親は嫌い。


この微妙な気持が、家宣に自分を見たのであろう。

二条城

京都へ行ったときに撮りました。

徳川慶喜の思い出が詰まってます。

大政奉還した場所も見てきました。

江戸城より、ここにいた時間のほうが長かったのでは?
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