徳川一族の話題

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松平 定敬は末の桑名藩第4代藩主。京都所司代。定綱系久松松平家13代。

美濃国高須藩(岐阜県海津市)藩主松平義建の八男。
兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主一橋茂栄、会津藩主松平容保などがいる。
所謂、高須四兄弟の末弟である

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E6%95%AC

この人も、兄と同じく京都の警備をまかされたばかりに
悲惨な思いをする

もし、中立な立場ならどちらについたのかな




松平定敬のすべて
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松平 定重は伊予松山藩主・松平定頼の三男。母は京極高広の娘。

正室は前田利常の娘、継室は駒井氏。
子に松平定富(四男)、松平定逵(五男)、松平定儀(六男)、水野忠定(九男)、松平定弘(十男)、
柳生俊平(十一男)、松平定利(十二男)、娘(島津吉貴正室)、娘(松平忠雅正室)、
娘(五島盛暢継室のち本多助芳正室)、娘(本庄宗弥正室のち京極高栄継室)ら

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E9%87%8Dより

意外なところで京極氏とつながっていたんですね

京極氏といえば、いまドラマで出てますね

松平 定行
定勝系久松松平家宗家2代。於大の方は祖母、徳川家康は伯父にあたる。

慶長6年(1601年)、伯父・家康に初めて拝謁。同7年(1602年)、従五位下河内守に任ぜられる。
次男であるが近江国蒲生郡の内2千石を賜う。翌年、兄・定吉の早世により嫡子となる。

同10年(1605年)9月、家康の命により島津忠恒(家久)の養女を室とする。
慶長12年(1607年)、父定勝より掛川城3万石を譲られ、大名となる。

大坂の陣では父定勝とともに伏見城を警衛する。元和3年(1617年)、父定勝の世子になり、掛川を幕府に還付、桑名に移る。 寛永元年(1624年)、父定勝の卒去により遺領桑名藩11万石を継承。

3年後、隠岐守に転任し従四位下に昇進。同11年(1634年)、従甥・徳川家光の上洛に際し、
桑名より供奉、家光の参内前に侍従に叙任。家光の参内では騎馬の供奉をつとめる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E8%A1%8Cより

伊予松山藩の藩祖ということでしょうか

関連タグ : 松平, 定行,

松平 定直
。伊予松山藩4代藩主。
定勝系久松松平家宗家5代。

伊予今治藩2代藩主・松平定時の長男。


元禄15年12月15日(1703年1月31日)に発生した元禄赤穂事件に関して、
定直は赤穂浪士47名のうち大石良金・堀部武庸・木村貞行・中村正辰・菅谷政利・千馬光忠・不破正種・大高忠雄・貝賀友信・岡野包秀の10名の預かりを命じられた。

この頃、病床にあった定直は江戸城への登城ができず家臣を通じてこの命令を受けた。
元禄16年1月5日(1703年2月20日)になって浪士達と会見。
会見の遅れへの謝罪と仇討ちへの称賛を送り、
「もっと大歓迎をしたいところだが、幕府からのお預かり人であるためできない。しかし諸事不自由はさせない。
用事があれば遠慮なく家臣に申し付けてくれてかまわない」と述べている。

但し、松平家の浪士達への待遇は大石良雄らを預かった細川綱利に比べ劣ったようで、
「細川の 水の(水野忠之)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」(当時の狂歌)と
江戸の武士や庶民からは批判された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E7%9B%B4より

預けられた先によって、待遇が違うとは

関連タグ : 松平, 定直,

保科正之が女性を信用しないわけ

前回の続きです

この理由はある出来事から、始まったとされてます。

2番目の妻 お万。

彼女は9人を生んだが、そのうち成人したのは4人だけ。

その中の3人は男だったが、いずれも若くして死亡。

2代藩主を継いだ、次男は36歳で死亡。

3代目は側室の産んだ子が継いだ

これでは、彼女の立場がない。

正室か側室か。

いつかの大奥みたいです。

そんな、彼女の救いは上杉家に嫁いだ娘だけ。

上杉家はもちろん、直江兼続のいたあの上杉である。

ただ、このあと別の問題が。

別の側室の産んだ娘が加賀の前田家へ嫁いだ。

そう、あの前田利家の前田家である。

家禄は?

前田家は100万石。

上杉家は・・・・

比べるまでもない。

上杉に謙信時代の勢いや力はもうない。

そこで、正妻のプライドがゆるさないため、ある行動に出た。

その側室の産んだ娘を毒殺しようという。

ところが、手違いで毒の入った料理は自分の娘のほうに。

そんなわけで、実の娘を自ら殺してしまった。

これを、きっかけに保科正之は女性不信になったといわれる。

名君といわれる彼には、こんなことがあった。

なので、名君なのに女性が信じられない。

女性からすれば、名君ではなかったということ。

とくに、会津の女性はたくましいほど立派だといわれるだけに、どうなんだろうと

考えてみたりもする。

さて、次回は会津が幕末に受けた悲劇と保科正之との関係を語ってみようか。


 
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